舞台「いまを生きる 」備忘録①

 はじめに

 

 事前知識ほぼゼロの状態で観劇をした初日、ラスト20分、目からボロボロと落ちる涙を止める事ができず、カーテンコール中も一人で泣き続けた。(コロナ禍にもかかわらずほぼ満員の新国立劇場スタンディングオベーションを目の前にした、ミークス役、基俊介くんの、なんとも言えない幸せそうな表情を見て、胸がいっぱいになってまた泣いた。あのお顔を思い出したら今でも泣けます。)感情を処理しきれないまま、翌日の昼公演へ向かってまた泣き、夜公演では涙が枯れて、ただただうまく息が出来ずに胸が苦しかった。

 

 観劇中、とにかくいろいろな事、例えば、自分が歩んできた人生、今の生き方、考え方、ものの捉え方、大切なものと、それに向き合う時の態度、そして学生時代の自分のこと、等々、それらに対するものすごく巨大な感情が頭の中を駆け巡るから、2時間10分ずっと、目と耳と頭をフル稼働させることになって、帰りにはぐったりしてしまう。でもその疲れは、仕事で残業が続いた帰り道のものとは全く違っていて、学生時代、自分が好きで研究していた分野の、卒業論文を書いていた時に、地元のスターバックスから歩いて帰る道の途中で感じた、あの感じと少し似ている。

 

 つまり何が言いたいかというと、『いまを生きる』という舞台が、作品として大好だということなんですけど。

 

 時間の許す限り新国立劇場に通っている今(2021/1/24)、自分がこの舞台を観て感じたこと、考えたこと、忘れたくないこと、その他諸々を備忘録としてここに記します。(お話が分かっていないとさっぱり?な文章だと思います。あらすじを書くとキリがないので許してください…。)この舞台は、100人が観たら100通りの、全く違う感想が生まれるであろう内容なので、ここに書くことはあくまでもわたし個人の解釈であり、これが全てだと言っているわけでも、これ以外の考え方を否定しているわけでもないことを、先にお断りしておきますね。観劇した方、よければあなたがどう思ったか、聞かせてください。そして、この先壮大なネタバレを含みますので、苦手な方は自衛をお願いします。では、始めます。

 

 

 ・「真実」とは何か

 

 まず初めに、この舞台で印象に残っている単語を2つ、あげたいと思います。

 一つ目は「真実」、そして、二つ目は「夢」。

 

 「真実」という言葉は、トッドが授業で読んだ詩の中で、かなり比重の重い言葉のように感じます。

 

 

僕は目を閉じている

男のイメージが、僕の横に浮かぶ

汗ばんだ出っ歯の狂人が僕の脳を揺さぶるように見つめてくる

彼の手が伸びて、僕の喉を締め上げる

彼はゆっくりと、絶えずつぶやく

真実

真実は常に、足がはみ出る毛布のようだと

広げても、引っ張っても、決して僕らを覆ってはくれない

蹴っても、殴っても、決して覆えない

泣き声をあげながらこの世に生まれ落ちたその瞬間から死ぬまで

泣いても、叫んでも、この真実という名の毛布は

かろうじて頭を隠してくれるだけです

 

 

 この詩を読んだトッドは、「真実」という言葉をどのように捉えていたのかなあ、と、一週間ほどずっと考えていたのだけど、きっと、彼にとって真実は、自分を守ってくれる、もしくは安心させてくれるものではなかったのだと思います。生まれた瞬間からできの良い兄が隣にいて、親からも、教師からも、そして周りの同級生からも比較され(直接的ではなかったかもしれませんが。)、「出来の悪い方の息子」であり続けたトッドの境遇を考えれば頷けるんじゃないでしょうか。

 

 舞台中、校長が転入生のトッドのことを紹介するシーンで、いつも苦しくなってしまうのはわたしだけじゃ、ないよね?校長はひたすらトッドの兄がいかに優秀な学生であったかを説明し続ける。その場にいるのは兄ではなく、トッドなのに、トッド自身を見ようとしない。その言葉を聞いた生徒たちがその場でこそこそと噂話をしているところからも、彼の兄がいかに学内で有名なのかが分かるけれど、生まれてからずっと「じゃない方」であり続けるって、相当しんどいじゃないですか。どう考えても。どれだけ人並み以上の努力を積み重ね、人並み以上の結果を残しても(ウェルトンは凡人が編入できる学校ではないので…)、そばに自分よりもずば抜けた何かを持つ人間がいたら、その全てが霞んでしまう。序盤のトッドの吃音を聞くたびに、彼が今までの人生で、どれほど「僕なんか」という言葉を心に浮かべていたか、想像しては悲しくなってしまうんですよね。あらゆる事実は、それが置かれる環境によって、形の異なる真実になるのだと、わたしは思います。不変の事実と可変の真実。トッドに出来のいい兄がいなかったら、この詩は生まれなかったでしょうし。

 

 「真実」という言葉は、終盤、キャメロンの口からも発せられます。

 

ダルトン、知らないかもしれないから教えてやるが、この学校には倫理規定というものがあるんだ。校長に聞かれたら、生徒は真実を答えなければならない。さもなければ退学だ。」

 

 

 ここでいう「真実」とはおそらく、事実を積み重ね、それを校長の視点から眺め、解釈したものですよね。その後、校長室に呼ばれた生徒たちが、無理やり意に反する署名をさせられるんですから。そしてこの「真実」は、「足のはみ出る毛布」そのものだと、わたしは思うのです。なぜなら、キーティングが責任を負い、教壇を降りることで、生徒たちは「人生を台無しにする」ことなく、今まで通りの生活を送る事ができるから。目の前に、上流階級への階段が見えたままだから。この真実の前では、どうあがいても、精神的な安らぎは手に入れられないけれど、少なくとも顔に泥を塗ることはないわけです。こういう見方をすれば、「真実」は「決して僕らを覆ってはくれない」けれど、「かろうじて頭を隠してくれる」という事になるのかな。

 

 以上がこの舞台における「真実」という言葉の、わたしなりの見解です。 

 

 

 

・「夢」とは何か

 

 さて、二つ目、「夢」について。

 

 まず、劇中でニールが出演することになったお芝居『夏の夜の夢』の話から始めます。

わたし自身、シェイクスピアは過去に何作か文字で読んでいるのですが、中でも『夏の夜の夢』は初めてでもとっつきやすいお話だと思います。原作、面白いので是非読んで欲しい。(岩波文庫版よりも、新潮文庫版の方が読みやすいかも…ご参考までに。)

 

舞台はアテネ。その中に存在する、異なる3つの世界の登場人物が絡み合うような構成になっています。

 

 一つ目の世界は、宮殿周りのもの。4日後に結婚式を控えた大公シーシアスが、アテネの(おそらく)貴族、イジアスに相談を持ちかけられます。その内容は、彼の娘ハーミアが、自分が決めた相手であるデメトリアスとの結婚を承諾しないので、アテネの法律でなんとかしてくれ、というものです。ちなみに、ハーミアにはライサンダーという意中の男性がおり、両想い。しかも、デメトリアスライサンダーに、身分の差はほとんどありません。現代の感覚ならば、「ライサンダーと結婚させてやれよ!」と思うところですが、時代的にそうともいかず、父権主義的な色がかなり強い。デメトリアスとの結婚を拒否した場合、ハーミアには処刑、出家、一生独身の三つの選択肢しか与えられないほど…

 

 このような状況下でも、ハーミアはデメトリアスとの結婚を受け入れられず、ライサンダーと駆け落ちすることを決意します。二人はアテネ近郊の森で待ち合わせたあと、アテネの法律の効力が及ばない場所まで行こうと話し合うのですが、その途中、森の中で、なんとも不思議な体験をすることになるのです。(ここは割愛。気になる人は読んでください。)

 

 二つ目の世界は、職人たちのもの。身分の低い職人たちが、シーシアスの結婚式の余興で劇を披露することになり、その稽古を森でやろう!という話になります。主要な登場人物は、機屋のボトム。稽古が始まった頃の彼は、とにかく自己中心的で、わがままな面が目立ちます。それを見た妖精パック(いまを生きるの劇中で、ニールが演じたあのパックです)が、悪戯として彼の頭を馬に変える魔法をかける。(その後色々あって)ボトムは妖精の女王タイターニアとその傍付きの妖精たちと過ごすことになります。(こちらも詳しくは割愛)

 

 三つ目の世界は、アテネ近郊の森の中の、妖精たちのもの。妖精の世界にも王(オベーロン)と女王(タイターニア)がいますが、ここでは当たり前に、アテネの法律は適用されません。なんせ、王と女王、喧嘩してますからね。最終的に王の意のままになる点は父権主義的なのかな、とは思うけれど、女王が王に刃向かう構図が描かれている点で、妖精の世界はアテネ市内の宮殿付近の世界とはまったく別物なのでしょう。

 

 パックは王の命により、アテネの若い男女(デメトリアス等)のまぶたに惚れ薬を塗るのですが、彼はここで惚れ薬を塗る人を間違えてしまいます。(詳しくは省きます)その結果として起きるのが、わたしが先に述べた「なんとも不思議な体験」というわけです。(紆余曲折ありつつも、最終的にはハッピーエンド。)

 

 森の中の最後のシーン。アテネで暮らす人々(ハーミアやデメトリアス、ボトム等)が目を覚ました時、彼らは口々に「あの出来事は夢のようだった」と述べることになります。そして、森の中から元いた世界に戻っていく。

 

 おそらくここで重要なのは、元の世界に戻った彼らが、森の中の出来事を通して、多かれ少なかれ変化しているということです。一つ例を挙げると、自己中心的だったボトムは、王の結婚式での余興を成功させるため、仲間を思いやることができるようになっています。森の中での妖精たちとの交流を通して、彼は異なる視点を手に入れることに成功しているのです。しかし、身を置く世界は全く変わっていない。ここも一つポイントなのかな。

 

 ちなみに、ニールが舞台上で演じるパックの台詞はエピローグ。(『夏の夜の夢』の作中におけるこの台詞は、「この芝居がつまらなかったら夢だと思ってね。次来た時はいいものみせることを誓うから、ヤジ飛ばさないで!そうすれば上手く収まるの」って意味だとわたしは思っています。)

 

 

 あんまりうまく説明出来てない気がするので、この先わたしが話すことが理解できなかったらとにかく原作を読んでほしい、人任せでごめんなさい……

 

 

 話を戻します。『いまを生きる』における「夢」とは何か。

 

 わたしは、「ジョン・キーティングがウェルトン・アカデミーに教師としてやってきて、去っていくまでの時間」を「夢」だと解釈しています。

 

 伝統的な教育カリキュラムを持つウェルトン・アカデミー、これが『夏の夜の夢』におけるアテネ市内、つまり、父権主義的で抑圧的な法律が効力を持つ世界であるのではないでしょうか。そして、キーティングの授業や彼との会話、詩人の会、これが夢。

 

 キーティングと出会う前の生徒たちは皆、校長や父親をはじめとした周りの大人たちに従い、彼らが引いたレールの上を、素直に、ただひたすらに走り続けていたように思います。そこにキーティングがやってきたことで、魔法がかかる。キーティングとの交流を通して、生徒たちは新たな視点を手に入れ、自分自身で考えた上で行動を選択する自由を知る。自分の心の声を聞き、自らが正しいと信じる道を歩いて行くことの難しさと、重要さを学ぶ。でもその時間は、長くは続かない。

 

 ニールの自殺のシーンで読まれる詩のことを、ずっと考えていました。

 

 なぜ全員で「僕たちはまだ眠っている」と言うのか。わたしが出した結論は次のとおり。「この時点で生徒たちはまだ、夢の中にいるから」です。彼らが夢から醒めるのは、ニールが死んだことを知らされ、キーティングが教壇から降りることになったその瞬間であるのではないでしょうか。

 

 この舞台は、6人の校歌斉唱から始まりますが、トッドが書類にサインした後、チェロの低音が奏でているのも校歌ですよね。わたし、これって、生徒たちがまた、抑圧的な環境に引き戻される合図のように思えてならないんです。キーティングが教室から去ったことで夢から醒めた生徒たちは、再び厳しいカリキュラムの下に置かれる。生活環境は全く変わらない。けれど、『夏の夜の夢』と同様に、生徒たちの中身には変化が見られる。キーティングの授業や、死せる詩人の会を通して、一皮剥けたからこそ、ラストのあのシーンがあるのだと、わたしは思います。

 

 ここに関しては本当に、いつまでもふわふわしたままで、きれいにまとまらないので、このくらいにしておきます。もしかしたら今後、いきなり霧が晴れたようにすっきりするかもしれないので、その時はまた、改めて書こうかな〜。

 

 

 

 つらつらと書いてきたらもう5000字を超えてしまいました。(のえまる定期更新ですか?)

 読んでくれている人、ありがとうございます。目が疲れちゃうから休憩しながらね。

 

 

 

・「キャメロン」というキャラクターについて

 

 ところで、皆さんは、いまを生きる、誰に感情移入をして観ることが多いですか?

 

 わたしは、圧倒的にキャメロンです。100回くらい言っているけど、キャメロンに感情のせるのが一番辛い。でも、気づくと乗せられてしまうんですよね。それは、学生時代のわたしが、(ぬるい環境で、ほんのうっすらではあるけれど)キャメロンみたいな考え方をしていたからだと思います。キャメロンってド真面目で、事前準備を怠らない、石橋を叩いて渡るタイプ。決して気が強いわけではないけれど、本人が正しいと思ったことは曲げない。チャーリーには「ごますり」と評されている、それもまた才能だからね。中高大と、わたしもこんな感じの学生生活を送っていたから、「あ〜わかるわかる」と思うシーンがいくつもある。

 

 当たり前だけど、一番刺さるのが、ニールが自殺した翌日、部屋に入ってきたキャメロンの言葉たち。まずね、大前提として、キャメロンって絶対ニールのこと、大好きなんですよ。みんな聞いてないかもしれないので書きますが、キーティング先生から次の授業までに詩を書いてくるように宿題を出された時、キャメロン、隣にいるニールにこそっと「ねえ一緒にやろうよ〜」って言っているんです。(ここ大好きすぎて、「ねえどうする?」にたいなこと言ってるミークスよりも見てしまう。)それに気づいた時から、キャメロンに対して大きすぎる感情を抱くようになってしまったんだけど。

 

 

「なんとでも思えばいい。でも、キーティングに罪を着せるべきだと、僕は思うよ。お前たちのキャプテン。あいつが余計なことを僕たちに吹き込まなかったら、ニールは今ごろこの部屋でくつろぎながら、化学の勉強をしていたんだ。キーティングのことは救えなくても、自分は救える。僕たちの人生を、台無しにする必要なんてないんだ。」

 

※順番など全てニュアンス。許して。

 

 

 

 初日はこのセリフを聞いても、特に何も思わなかったんだけど、舞台に通えば通うほど、キャメロンがどんな人間か、少しずつ知っていくほど、心臓をえぐられるようになってしまった。チャーリーはキャメロンのことを、「自分の大事な大事な首を守ることしか考えていない」と言うけれど、わたしは彼に、「キャメロンは、最大多数の最大幸福が実現するように行動しているだけだよ」と、声を大にして訴えたい。

 

 キャメロンだって、この事件がキーティング先生のせいだとは、きっと思っていない。けれど、そう解釈しないと自分もニールの死を受け入れられないし、反抗したからといって事態が好転する事がないことを、ちゃんとわかっている。そして、その上で、自分も含めた生徒たちがこれ以上悲惨な状況に陥らないような行動を、自分の意思で行っている。

 

 つくづく副部長タイプだなあと、思ってしまいますね。誰にも見られていなくても、みんなのことを考えて行動できる、誰にも褒められなくても、それが最善の方法ならばやり遂げる。最後の最後で机の上に立たないキャメロンのこと、みんながどう思おうと、わたしは大好きです。きっと真意は、先生にも伝わっていると思う。「ありがとう、みんな、ありがとう。」の「みんな」には、絶対にキャメロンも含まれていると、思うよ。

 

 以上、わたしが今考えていることの一部抜粋でした。

 まだまだ話したいことがたくさんあるな。

 それくらい、濃密な舞台です。

 

 

 ここまで書いてきて、いよいよ自分が誰担だか分からなくなってきました。これは由々しき事態です。(もといくんごめんね。)でも、内容に関して一番言いたかったのはこの3つなんですよね。お芝居に関する細かいお話は、千秋楽を迎えたら一気にまとめて書くことにして、今日はこのくらいにしておきます。ああ、何回みてもみたりない、考えても考えても、次から次へとまた考えることが生まれてしまう、大好きなこの舞台も折り返し。今から終わってしまうのが辛いです。でもどうか、どうか無事に、2/21を迎えられますように。

 

 

 続きがあるかは分からないけど、書きたくなったらまた書きます。

 みにいった人、是非是非感想、教えてください〜〜〜〜!

 

 

2021.1.24

みず

 

www.imawoikiru.jp